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X11の「継ぎ接ぎ感」とWaylandの正体

By vinesystems

最近、openSUSE + KDEの環境をいじっていて気づいたことがある。X11を使っているとき、どうも「いろんなものの寄せ集め」みたいな感触があるのだ。設定ファイルは散らばり、トラブルシューティングをしても統一感がない。一方でWaylandは、触っていて妙にスッキリしている。

この違いは何なのか。調べてみると、それはLinuxの描画周りが30年かけて抱え込んできた技術的負債と、その清算プロジェクトの話だった。

X11が抱えた「拡張の連鎖」

X11の設計は1980年代に遡る。当時の要件は「ネットワーク越しにアプリケーションを動かす」こと。そのために、X Serverという巨大な仲介役を中心に据え、すべての描画と入力を集約する仕組みになっている。

ただ、時代は変わった。マルチモニターが当たり前になり、GPUが高性能化し、デスクトップには半透明や滑らかなアニメーションが求められるようになった。X11の基本設計は、そういう世界を想定していなかったのだろう。

そこで取られた手段が、拡張機能の追加だった。マルチモニター対応にはXRandR、3D描画にはGLX、入力デバイスの拡張にはXInput……。

最初は単機能だったシステムに機能を継ぎ足し続けた結果、全体像を誰も把握できなくなる。業務システムで繰り返される光景だ。私が感じていた「寄せ集め感」は、まさにこの拡張の積み重ねだったのではないか。

Waylandが「削ぎ落としたもの」と「担うもの」

Waylandのアプローチは対照的だ。まず、X11が抱え込んでいた仕事の多くを手放した。

削ぎ落としたもの:

  • メモリ管理やデバイス制御 → カーネル側(DRM/KMS)とライブラリ(libinput)に委譲
  • サーバー側での描画処理 → アプリとGPUに任せる
  • 複雑な中継処理 → 不要な通信とメモリコピーを排除

担うもの:

  • ウィンドウの合成と表示プロトコルのみ

つまり、Waylandは交通整理だけに徹している。Linuxカーネルが賢くなったんだから、ディスプレイサーバーが全部抱え込む必要はないという思想だろう。コードもスリムになり、無駄な処理も減る。スッキリ感じるのは当然かもしれない。

描画の主役が変わった

ここで一つ疑問が浮かぶ。「WindowsのGDIに当たる機能はどこへ行ったのか」。

昔のWindowsでは、アプリがGDIに「線を引いてくれ」と命令していた。X11にも同じような仕組み(Core Protocol)があり、サーバー側に描画を任せていた。

しかし現代では、この「サーバーに描かせる」モデル自体が放棄されている。QtやGTK、Cairoといったライブラリを使って、アプリ側が自力でGPUを叩いて画像を作る。Waylandは、出来上がった画像を受け取って画面に出すだけ。「円を描け」ではなく、「描いた絵を渡す」方式に変わった。

だからこそ、Waylandには描画APIが存在しない。描画の主役はすでにクライアント側に移っており、ディスプレイサーバーは合成に専念すればいい。この役割分担の明確化が、現代のLinuxデスクトップが高精細なUIを実現できている理由でもあるのだろう。

技術選択としてのWayland

X11の継ぎ接ぎ感は、30年戦ってきた傷跡だ。Waylandがスマートなのは、現代のハードウェアを前提にゼロから設計されたからだろう。

ITエンジニアとして、レガシーシステムの刷新プロジェクトがどれほど困難か、よく分かる。しかし同時に、時代に合わない設計を引きずり続けることの限界も理解している。技術選択とは、過去の資産と現代の要件のバランスを取ることだ。Waylandへの移行は、そのバランスが明確に傾いた結果なのではないか。

openSUSEも、このままWaylandセッションで使っていくことになりそうだ。

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